体罰についての基本的な考え方

もうすぐ、勤務する高校でも新任の先生を迎える。

この機に生徒の安全に関わることを言語化し、仲間と共有したい。

自分自身の頭の整理の為に、まずは体罰について書き記しておく。


①体罰は過去の問題では無い

体罰の正確な定義は難しいが、一般に、身体に対する侵害や肉体的苦痛を与える懲戒などを指す。

体罰と聞くと、校内暴力や荒れが目立った時代をイメージするかも知れない。

しかし、文部科学省による平成29年度における調査の結果を見ても、依然全国の小中高で773件の体罰が発生している。

関西で生活する者としては、2012年に大阪の市立高校で起こった男子生徒の自死事件も記憶に新しい。

このような事件や学校事故は、残念ながら後を絶たない。

学校という枠にとどまらず、この10年程の間に報じられた家庭内暴力や介護施設での虐待事件にも思いを馳せると、対岸で起こった行き過ぎた指導・異常な行動として捉えるのでは無く、閉鎖的な環境の中では誰でも加害者になり得るし、組織として意識的な予防行為が不可欠と考えるべきである。

②教員は基本的に身体接触はしない

校種や担当教科・生徒のニーズによって差異はあるかも知れないが、こと高校教諭として仕事をする上で、基本的に身体接触はしないというスタンスが望ましい。

文部科学省HPでも「懲戒・体罰等に関する参考事例」を載せているが、例外は生徒や自己を緊急的な危険から守る時である。

それ以外の場面では、接触は不要と言って良い。

ただ、自分も生徒を励ましたり、寝ている生徒を起こす時に肩をポンポンと叩くことはある。

これらの軽い接触も、ある種の過敏さを持っている生徒には「暴力」となり得るし、冗談めかして行った行為が周囲の生徒を傷つけ、強く不安にさせることもあり得る。

そう考えると、体罰を防ぎ生徒が安心して学べる環境を作る為には、言葉で伝える力を信じ、「身体接触はしない」という原則を守ることが最善だと思う。

③自己の判断のみで懲戒を行わない

文部科学省HPには、学校教育法施行規則に定める退学・停学・訓告以外で認められると考えられるものの例として、以下のようなものを挙げている。

放課後等に教室に残留させる。

授業中、教室内に起立させる。

学習課題や清掃活動を課す。

学校当番を多く割り当てる。

立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。

練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる。

体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について(通知)文部科学省

個人的には、いずれも緊急性の高いものでは無いし、指導という名の下で慌てて力を振りかざす必要は無いと感じる。

教員自身も落ち着いている状態で、上長や同僚にきちんと相談をして意思決定をすれば良い。

その方が生徒にとっても良いし、自分自身と学校をリスクから守ることに繋がる。


最後に、新しく教育の世界で働く仲間に伝えたいこと。

一つ目は、他の業界に学ぶこと。

小学校や支援学校といった他の校種、介護や福祉の世界、秩序や規範・迅速な行動が求められる他の組織では、どのように人を動かしているかに興味を持って見ると、ヒントになることが沢山ある。

自分達が普段属している世界の“当たり前”で判断するのでは無く、世の中の常識的な感覚や視点から自分を見る努力が必要だと思う。(なかなか難しいけど…。)

二つ目は、生徒を良く見ること。

職場の先輩に教わったことだが、学校に届くクレームの多くは、先生が冷たいと言う不満や、生徒の悩みや問題に対する初動に起因するものだそうだ。

自分も、生徒や保護者の期待に応えられているかというと非常に心許無いが、目配りや声掛けは意識的にしなければならない。

三つ目は、抱え込まないこと。

一生懸命学び実践した上で、自分の思惑通りに動かない生徒居たとしても恥ずかしいことでは無いと思う。

思い通り動かすことに必要以上に捉われたり、上手くいかないことを他の教員が非難しかしないような組織であれば、実はそのことの方がずっと危険な状態といえる。

きちんと頼れる人を見つけて、助けて貰った方が良い。

新年度のスタート。一緒に頑張りましょう。

水溪 悠樹(ミズタニ ユウキ)

授業力研修の振り返り

8月上旬に、2日間にわたって授業力についての研修がありました。

3週間が過ぎた今だから冷静に振り返ることが出来ますが、歯痒く、心中穏やかでは無かったです。

苦い思いも含めてきちんと向き合えるよう、感じたことを3つ記しておきます。

一つ目は、1~2年目の先生方の力量の高さに心底驚いたこと。

私の受け持ちは、地歴公民科の授業。これまで、双方向型授業の重要性は理解しつつも、教科の性質上ある程度知識伝達型の授業スタイルになることは止むを得ないという思いを持っていました。

しかし、研修で見た自分より10歳近く若い先生の授業は、豊富な発問や言葉のキャッチボールで参加者を引き込む見事なもの。

何のことはない、私の表現力の弱さや思い込みが授業の幅を狭めていた訳です。

二つ目は、研修に至るの時間の使い方と仕上げる意識について。

いい加減な気持ちで研修に臨んだつもりはありませんが、日々の業務に溺れないよう水面に顔を出しているだけで精一杯になり、準備不足が否めないまま当日を迎えてしまいました。

他方、同僚は誰一人そんな言い訳はせず、限られた時間の中で自分の授業を仕上げて成果を出しています。(自分よりずっと多くのことをしているにも関わらず!)

定められた締め切りまでに自分の表現を磨き上げ、授業時間の中で表現し尽くす。そういった種類の集中力やタイムマネジメントの力の弱さを痛感します。

また、入職時より仕事上の大失敗は減ったものの、それに安心してしていた甘えの気持ちもあるように思います。

10年選手の先輩や同僚に頼んで自分の試みを見て貰い、集団の中で磨かれる機会をもっと求めて行かなければならないと感じました。

三つ目は、自分の不器用さを再認識したこと。

私は自身の特性上、ノリや自前の引き出しで「それっぽく伝える」ということが出来ません。逆に言うと、時間を掛けて授業の目的や前提知識を深め、伝える為の構造を身体レベルまで落とし込んだ上であれば、そこから生まれた余裕で初めて気持ちを乗せることが出来ます。

つまり、処理能力上、話の構造を意識することと感情を込めることの2つを両立することは困難です。我ながら非常に難儀ですが、自分自身と他者ををごまかすことが出来ない以上、愚直にやり続けるしかないように思います。

最後に余談を。

10代の終わりに表現の世界に憧れていた頃。自分なりに努力はしましたが、結局は自分自身を前面に押し出す強さはありませんでしたし、これだけは表現しなければ生きていけないというテーマは見出せませんでした。

教員として働く今、目の前には生徒がいます。取り扱うべきテーマのもとで、授業でどのように表現するかは私次第。それこそ、学校生活の中での様々な場面も含めると、伝えられることは無限です。

人に対して伝えられる幸福と責任を噛み締めながら、もっと楽しんで取り組めるようになりたいと思います。

水溪 悠樹(ミズタニ ユウキ)